2023年11月29日、ヘンリー・キッシンジャーが100歳で亡くなった。
大著『外交』で知られる国際政治学者のキッシンジャー氏は、1970年代のアメリカ外交を代表する同国の外交官でもある。
ヘンリー・キッシンジャー氏が100歳で死去 評価分かれる米外交の大物 - CNN.co.jp
▽ワシントン
ニクソン訪中
1972年2月、ニクソン米大統領が中国を訪問し、毛沢東主席らと会談した。
正式な外交関係のなかった時代のことで、米中関係の転機となった。
が、ニクソン大統領はすでに前年の7月に訪中を発表していた。
これは、当時の国際社会にいわゆる「ニクソン・ショック」をもたらした。
その年の10月、国連総会は早くも台湾政府を追放し、中華人民共和国政府を中国代表として認めることを決議した。
キッシンジャー
ニクソン大統領による訪中を準備した人物こそが、キッシンジャー氏だ。
1969年1月、ニクソン大統領の就任と共に、当時ハーバード大学教授だったキッシンジャー氏は、国家安全保障問題担当の大統領補佐官に任命された。
この人事は、大統領が国務長官や国防長官を介さず、自ら主導で外交を行う意欲の表れだった。
1971年7月、ニクソン大統領に派遣されたキッシンジャー氏は、パキスタンを経由して内密に北京を訪問した。
キッシンジャー氏は周恩来首相と会談し、将来的な国交正常化(実現は1979年)を約束した。
その直後、ニクソン大統領が突如訪中を発表し、国際社会を驚かせたことは先述した通りだ。
▽1975年のキッシンジャー(from Wikipedia)
ベトナム戦争
1965年にベトナムで北爆と地上軍の派遣が開始されて以後、戦争は泥沼化し、アメリカは財政的に国力を消耗していた。
1969年に就任したニクソン大統領とキッシンジャー氏の課題は、この戦争に何らかの形で終止符を打つことだった。
ニクソン大統領の訪中による中国への接近は、その布石となった。
1969年の軍事衝突以来、同じ共産主義国でありながら、ソ連と中国との関係は悪化していた。
ニクソン大統領の訪中は、米中だけではなく、驚いたソ連の態度も変化させ、米ソ間の接近にも繋がった。
このような背景の中、1973年にベトナム戦争は終結した。
その努力が評価され、キッシンジャー氏は同年ノーベル平和賞を受賞した。
功罪
一方で、キッシンジャー氏に対しては批判もある。
1969年3月、アメリカはベトナム戦争での戦術的観点から、カンボジアに対して秘密爆撃を行い、翌年には地上軍も侵攻させている。
あるいは、1973年にクーデターで社会主義政権を倒したチリのピノチェトを、キッシンジャー氏は支持した。
ピノチェトは多くの市民を殺害、拷問、拘禁し、後に英国で逮捕された。
ウクライナ戦争
2023年7月、100歳のキッシンジャー氏は北京を訪問して習近平主席と会談し、「旧友」と賞賛された。
習氏、キッシンジャー氏を「旧友」と称賛 北京での会談で(1/2) - CNN.co.jp
一方、キッシンジャー氏もゼレンスキー大統領には敵わない。
2022年5月、キッシンジャー氏はダボス会議にビデオ出演した。
そこで、キッシンジャー氏はウクライナ戦争に言及して、「理想的には境界線は戦争前の原状に戻すべきだ」と発言した。
これは、ウクライナがドンバスやクリミア半島を放棄すべきことを、暗に仄めかしたものだ。
ゼレンスキー氏、キッシンジャー氏の和平交渉案を非難 「宥和政策」と指摘 - CNN.co.jp
1938年
これを、ゼレンスキー大統領は次のように批判する。
キッシンジャー氏のカレンダーは2022年ではなく1938年のままであり、ダボスではなく当時のミュンヘンの聴衆に向け話をしていると考えているようだ。
ゼレンスキー大統領が1938年という数字で意図しているのは、英仏のナチス・ドイツに対する宥和政策の代表として知られるミュンヘン会談だ。
1938年、イギリス、フランス、イタリア、ドイツがミュンヘンに集まり、チェコスロバキアのズテーテン地方をドイツに割譲することが決定された。
チェコスロバキアの代表は、会議室の外で待機していなければならなかった。
つまり、「平和」(英仏が戦争に巻き込まれないこと)のために、小国の運命が大国間で処理されたのだ。
しかし、1939年9月1日、ヒトラーはポーランドへの侵攻を開始する。
力学的な境界線
CNNの報道はこう結んでいる。
(ゼレンスキー大統領は)「偉大な地政学者」が必ずしも普通の人々に目を向ける訳ではないとも述べ、「彼らが平和の錯覚と引き換えに譲渡を提案する土地には何百万人もの普通のウクライナ人が実際に暮らしている」と指摘した。
力学的な境界線という発想は、政治家的な嗅覚の問題でもあるし、学者の理論的な問題でもある。
1800年代のウィーン体制では、ヨーロッパの大国間で秩序が維持された。
第二次世界大戦後には、米ソ間で軍事的緊張と緩和が組み合わさりながら、国際的秩序が形成されていた。
キッシンジャー氏は、国際政治学者としてウィーン体制を高く評価している。
が、大国間で維持される秩序とは、しばしば小国を無視し、犠牲にすることで成り立っていたものだった。
上述の通り、ゼレンスキー大統領は「平和の錯覚」と言っている。
平和とは力学的な処理の問題なのか、それとも、自由と平等を前提とした友好関係のことなのか。
知性とは常識と共感のことだ。
おそらく、「友好を忘れた政治学」という、私たちが「知的武器」だと思っているそれは、それが武器である以上、知性ではなく野蛮なのだ。
Reference
佐々木卓也, 編『戦後アメリカ外交史』(有斐閣アルマ)